2008年05月26日

ブタのごとく生きろ!


 
 もう一度寺山修司の「ブタのように生きろ!」
 を思い出そう。きっとヤクザにはなれるさ!

 どうせいつかは果てる身
 やるなら やろう やってやろう
 親など殺すにも値しない
 そんなヒマあるなら生き抜くことを考えよう
 生き抜くことに絶望したら
 ブタのごとく生きることを考えよう
 刑務所に入りたいヤツは 窃盗ぐらいに押さえておこう
 関係ないヤツ殺してみても 人気が落ちるだけさ
 どうせ マスコミは 視聴率がほしいだけ
 なんなら人情話でも聴かせてやれよ
 生きることに絶望したら
 ブタのごとく生きよう!
  

posted by ミタマ、パンダ at 18:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

拉致について

拉致被害者の横田めぐみさんについての新証言が出てきたらしい。

もしも本当に解決したいのならば、拉致の問題を忘れた方がいいのかもしれない。
現在の体制での北朝鮮が何を言っても信用できないのなら、国交が回復してから両親自身や日本の調査団が北朝鮮に行って調査するしかないだろう。
またいつの日か北朝鮮の体制が変わったときに証拠が見つかるようにするために北朝鮮に拉致問題のことをあまり意識させないことも大切かもしれない。
でも自分の娘が拉致されてもしかして今でも生きているとするなら一日でも早く会いたいと思うのは親心なので第三者がしっかりとサポートしないといけないんじゃないかと思います。政治家の人気取りに被害者を利用するようなことはしてほしくないです。

なぜか虚しい。こんなこと書いてる自分が虚しい。
あと日本が虚しい。
タグ:政治 拉致
posted by ミタマ、パンダ at 11:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ど、ど

そうか、そうか。ゆうこりん!えらいぞ!

ゆうこりん(小倉優子24才)が警視庁の快晴道路交通法施行にともなう子通安全キャンペーン隊長に任命されて言い放った言葉が「交通安全が減るように、頑張ります」だった。「安全」と「事故」を間違え観客の苦笑を買ったらしい。

警視庁にとっては「安全」が減ってくれた方が「予算」を獲得できていいってことを暗に匂わしたんだろうな。やるな。

民主党の姫井議員が家庭内暴力のイベントに参加したらしい。

これはすでにネタ化してるのか。
姫井は悲鳴なのか。
本当はどういう人なんだこの人?
自民党のお偉いさんを破った人なんでしょ。

タグ:芸能
posted by ミタマ、パンダ at 11:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月25日

「ただ生きる」時代から「いかに生きるか」の時代〜無気力とうつ



 1975年あたりから「物の豊さ」から「心の豊かさ」へと国民の関心が変遷したと言われる。物の豊かさから離れて心の豊かさにシフトしたと言えば聞こえはいいが、実際のところは必需品が満たされて、物の豊かさの臨界点を越えたが故に心の豊かさへと目標が変更された。物がなった状態からある状態への変化では幸福が得られなくなったのだろう。ただ物を獲得するだけでは幸せになれなくなった時代の幕開けであった。
 さらに言えば「ただ生きる」ことが高嶺の花だった時代から「いかに生きるか」を追求する時代になったとも言える。社会状況がかわってその社会を生きる人々の目的も変わったのだ。そして目的が変わった以上はその目的のための手段もいかようにかは変わらなければならなかった。あくまで手段は目的によって意味付けられるからだ。
 例えば「労働」。「労働」はあくまで生きるためになされる。死ぬために労働する人は正常であるならあまりいないだろう。「労働」が意味付けられるのは「生きる」ための手段であるからだ。また「労働」しているときは「生きている」!とも言えるので「労働」と「生きる」ことは手段ー目的関係としては成り立っている。
 一方で「いかに生きるか」さらに言えば「幸福に生きるか」と「労働」の関係はどうだろうか。結論から先に言えば条件次第で成り立つと言える。「労働」自体が厳しくきついものであるなら「労働」時間が一日のまたは一生のうちに大半を占めるものになれば、「幸福に生きる」ことは難しくなる。
 もちろん「労働」によって得た賃金で消費を楽しむことで「幸福に生きる」ことは可能だろう。ただし消費をできる余暇をどれだけともなえるかにもよる。「幸福に生きる」ためには「労働」の時間を短縮するか負担を軽減させることが条件になるだろう。
 ただし、日本の場合は過労死が代表的だろうが、死ぬために労働することがしばしば存在する文化圏では非常に難しい。若年層が「労働」に対してインセンティブが働かないという原因の一つはこれをあげることができる。「幸福に生きよう」とすると日本的な雇用環境では目標が達成できない。
 このような日本の雇用環境で「幸福に生きる」ためには「労働」自体を楽しく行えることが手短な道だと考えられる。ワーキングプワなどが問題化されるまえにマスコミでも取り上げられていた若者の「やりたいこと志向」はこれにあたると言える。「やりたいこと」を「労働」としているのであるから、「労働」への従事時間が増えても耐えることができるだろうと若年層が考えても不思議はないと思える。
日本の雇用環境と社会的の変化にともなう社会成員の目標の変化を考えればこの方法がもっとも妥当だとも言える。
 ただし「労働」=「やりたいこと」が結びついくことがどこまで可能であるのかはわからない。まして日本の教育カリキュラムではそういった発想をもって生徒指導されてきたわけではないので、さらに結びつきが難しくなっている。
 さらに経済発展にともない重化学工場中心の経済体制からサービス産業中心の経済体制にシフトしたことから「労働」での必要とされる能力が「勤勉」や「我慢」「黙々と同じことを繰り返す」などの能力よりも「柔軟な反応・態度」「人当たりのよさ」などを必要とされる「労働」にシフトしたことも「自己表現」に欠けると言われる現代の若者(日本人)にとっては「労働」へと踏み出すことを躊躇させている要因だとも思われる。現在では工業労働も派遣社員化しているので流動的な人間関係のなかで「仕事」をこなさなければならず退職者を生み出す要因となっているだろう。
 「心の豊かさ」を求めることは現在の日本では大変難しい。
年長者の「労働」=「生きる」ためには明らかに「家族」が「生きる」ためにという精神が存在していたように思う。これはH・アレントの「活動」(人の生に有意味性を与えるもの)にあたるので「労働」に意味を求めることがいらなかった。もしかするならば「労働」と「活動」がくっついたということで幸福な時代だったのかもしれない。
 だが、若年層は違う。その若年層が年長者と同じような労働環境で「労働」をこなしていけるかは難しいところがあるだろう。「労働」は単なる「労働」でしかないのだ。なおかつ「ただ生きる」から「いかに生きるか」へと願望がシフトしているためになおさらきつい。若年層や労働の現場においてうつや無気力の問題が多発しているのは当然と言えば当然すぎる。うまく生きていく方法は何も考えないことかもしれない。

「労働」の神聖化

 「労働」を神聖あつかいすることがある。「額に汗して働く」ことが善いことという認識が強い。文化人類学者のルース・ベネディクトが日本人の行動パターンを研究したときに指摘した「修養」による「自己否定」につながっているように思う。「修養」や「自己否定」が一種の自己目的化してしまい「労働」による成果よりも「一生懸命働く姿」や「イヤな仕事を率先して引き受ける姿勢」「気持ちがいい挨拶」などが問われがちになる。
 「労働」を一種の生活の糧を稼ぐためだという態度は「修養」や「自己否定」が足りないと判断される節がある。そうなると会社内での居場所がなくなり、さらに転職といっても終身雇用が一般的な世界では思ったとおりの転職先にありつける可能性は格段に低く、であるがために年長者が「労働」を楽しくするだとかという発 想をさらに取りにくいのではないかと思う。
 年長者にとって「修養」や「自己否定」はそのものを価値とするものもいるが、「修養」や「自己否定」をすることで共同体的な人間関係を築く一つのツールである趣もあるのだろう。共同体への参加が許された場合はある程度の「怠惰」や「わがまま」も可能だったと思う。
 若年層にとっては年長者の「修養」や「自己否定」がある種の集団ナルシシズムや自己陶酔のように見えるのだろう。年長者にとって「修養」や「自己否定」が生活の糧や人間関係の基礎を獲得するためのツールだったのが、若年層にとっては自己表現と個性を欠いているように見える。
 年長者の場合家族を支えているといった感受性があったのが若年層にはないのがその背景にあるように思える。家族のために一生懸命働くことは「ただ生きる」時代から「いかに生きる」時代へのシフト変化によっていつの間にか一生懸命働くがゆえに家庭がむちゃくちゃになっていくように思われるようになった。
 さらにより「修養」や「自己否定」を目的化したものが出世している可能性が高くさらに会社の人間関係が師弟関係や親子関係のように私生活におよんだり業務とは関係ない範囲でも人格的な尊敬を与えることが求められがちであり、現在すでに出世している年長者もまた自分を人格的に尊敬されることを望みがちであるが、人間関係が薄い(人間関係に問題を抱えがちな)若年層にとって表面上だけでも尊敬しているようにみせることは難しく、そのために不利益を被ることが避けられない。
 これらのことは若年層にとって納得がいなかいものであり、さらに出世と「修養」「自己否定」がつながりがあることは「修養」でも「自己否定」でもないことが透けて見えるというのもあるだろう。一方で年長者にとってそれが若年層の怠惰に感じられる。

posted by ミタマ、パンダ at 15:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月23日

宮台真司って誰だ?

宮台真司批判について

 社会学者の宮台真司氏を叩くのは結構なことだけどほかに代わりがいるのだろうとも思います。
 ブルセラ女子高生を擁護していたのは、あの当時では仕方ないことだと思います。
多くの宮台真司氏の著作に目を通したわけではないけど、あの当時やれたていたことは、政治哲学者のH・アレントが言うところの「活動」が失われてた近現代社会への処方箋であり、さらに後発近代国家でボトムダウンではなくてボトムアップで近代化を行った国である日本への最適解を導きだそうとしたことだったと思います。

 H・アレントの「活動」を一言で説明するのは難しいけども、生に有意味性をもたせる行為それ自身のことだと言えばいいだろうか。
宮台真司氏は「意味から強度」と言って近代社会において人々に生きる意味を与えていた「大きな物語」が機能しなくなったので「意味」を求めることをやめて「強度」を求めて生きる方がいいと示していたと思う。
アレントの言う「活動」は生に有意味性をあたえる行為それ自身であるので、宮台真司氏が言う「意味から強度」では「意味」の方ではなく「強度」とおおよそイコールだと言っていいと思う。何か行為をした結果に軸があるのではなくて、その行為自身に主眼がありその行為自身に意味を求める。アレントの言う「活動」は行為の結果に意味を見いだす必要がない。あくまで行為自身に「強度」が帯びるので結果に「意味」がいらない。であるのでやがてやってくる輝かしい「未来」を捨てて「今」を生きるブルセラ女子高生に肩入れしたのだろうと思う。

 だだし、これはうまくいかなかった。それどころか「動物化」と言われるような現象の方が目立ってきた。というか一瞬うまくいきそうな感じがあったが永続しなかったと言うべきかもしれない。
近代社会からポストモダン、近代から後期近代へとシフトする瞬間に新しいものが始まる高揚、古い時代を捨てて新しい時代へと向かう期待が「活動」とイコールだったが、すぐに陳腐化とともに近現代社会で「活動」を復権することは無理があったのかもしれません。
「活動」が結果に意味を問うことがないのは行為自体をする動機が降ってくるまたは湧いてきているがゆえに行為の結果如何から利害やら効用やらを引き出す必要がないからだけども、「活動」はリアリティと仲がいいが、宮台真司氏の言ってた「強度」は生物の生命過程と仲がいい。
「活動」は良き者であらんとする高貴なる意思や宮台用語では「取り替え不可能性」と仲がいい。でも「強度」は「食欲」や「性欲」「生存本能」と仲がよくてこれらは確かに結果に意味を持ち出すことはないかもしれないが、「取り替え不可能性」は得られない。
「活動」に重きを置かれなかった時代は神学や哲学が幅をきたす時代である。だから古代ギリシャや古代ローマが滅亡してからは神学の時代になったし、政治に重きをおいた古代ギリシャ人から政治から距離をとった哲学者ソクラテスを経て弟子のプラトンは「イデア」を奉じるようになっていった(たぶんね(><))。社会(この場合多数性)から世界へ。これを脱社会化と言っていると思いますが、現代社会で脱社会化するのはもしかしてまともに社会と向き合った証であるともいえるが一方で、単なる「活動」できない弱者にも取れるということだと思います。個人的にはあたっていると思います。
 一方で、宮台真司氏が擁護した「強度」もあの当時は失われた「活動」の匂いを漂わせていたのに今では本当に「強度」だけになってしまった。
「食欲」や「性欲」「生存本能」それのみになってしまい「動物化」した。
 どこかで東浩紀氏や大澤真幸氏だったろうか、若者の「純愛」志向と「動物化」を議論してた記憶がありますが、たぶん一方で「イデア」的な志向と「動物」的な志向が交錯しているのだろうと思います。
 それと、現代社会で心理学や社会学が注目を浴びるのは、たぶんそれは社会学や心理学が問題じゃなくて科学だからだろうと思います。哲学や文学・神学は科学とは言いがたい。社会に近代科学が行き渡ることによってすべてが科学的またはシステマチックになったがために「大きな物語」が機能している間はまだよかったけれどもそれが機能しなくなるとなんだかベルトコンベアに載せられている気がしてくるので、どうしようかと考えたときに、ベルトコンベアのごとく社会学や心理学があてがわれる。
 もちろん社会学も心理学もまともであるなら科学であるので科学的でしょう。科学的でじゃないほうがおかしい。じゃあ科学的じゃなくていいじゃんと言っても、カルトにいけるわけにもいかない(実際はいったけど)。それにそういった思考自体がどうしようもなくシステマチックに思えてどうしようもない。でも、だから新人類的な全部忘れて「戯れ」ようだったのに(たぶんね(><))。

 で、(長くなりそうなので)結論です。宮台真司氏を叩くのはいいと思いますが、他の人は叩くにも及ばない。適当な若者論ぶって名前広めようとか金儲けしようとか、自分のイデオロギーを押し付けているようにしか思えない。
 別段、お金儲けでも名前広めようとするのでもイデオロギーでもなんでもいいけど、そのかわりしっかりやってくれよ。偉いんだったら。立派な頭持ってるんならしっかり使ってくれよ。できないなら大人しく粛々と生きていってくれよ。と思います。統計とかデータとかそんなもの必要としなくてもだいたい接してたらわかることもわかってない人が多すぎる。どんな感覚してるんだよ。だから学者とか評論家になるんだろう。学校の先生や学者は相手にするのが自分よりも能力や社会的影響力が低いのを見越してでかい顔してるように思います。学校の先生は生徒のことを大切にするがために尊敬されるのに、尊敬されたいがために学校の先生になっているみたいな人がたまにいる気がします。学校の先生はリハビリのための職業じゃないはずです。
 僕を含めて若者が問題あるのは明らかだと思います。いや、明らかです。こんな文章書いてる自体で問題ありです!だから問題化されて当然だと思います。「人間力」そんなもんあるわけない!認めます。
 でも、すべてにおいて若者が(僕が)悪いわけないし、問題ある人を指摘してもいいのなら若者を否定してる人たちにも十分問題があるのだから否定したっていいのだろうと思います。「人間力」?そんな大切ならなんでもっとちゃんと学校で教えてくれなかったんだ。いったい何やってたんだ教育者たちは。いじめを隠蔽していたおまえらに教育者の資格があるわけないだろ。コミュミケーション能力?ふざけるな!そりゃもっともだけどそんなの学校で問われてきたか。今まで学校でやってたことはなんだったんだ。おまえが求めてるコミュニケーションってのはおまえらをヨイショしろってことかよ。おまえらが納得すること話せということか。そんなバカな!コミュニケーションスキルってのはもともと前提を共有していないもの同士が話を通じされることじゃないのか。おまえらもともと前提を共有した人間しか相手にしてないじゃないか。私企業がそれで人事を決定するのは仕方ないこととしても、コミュニケーションスキルがまずおまえらにあるのか疑ってからにせめてしてくれ。自分たちの組織がまともな組織なのか疑ってからにしてくれ。でないと納得できない。世の中どうもコミュニケーションスキルが大切らしいからうちの会社もコニュニケーションスキルで判断しましようとか話し合ってそうなんだけど。
 丸山真男が『日本の思想』で外国人教師がときに日本人の反応にショックを受けることがあると書いていたけど、僕もこの国は生きているとたまにカルチャーショックを受ける。トラウマになりそうだ。でもまあ、これってもしかすると(いや高い確率で)僕の問題の可能性大だけど(><)←実はこの絵文字しか知らないんだよね〜。
あ〜スッキリした。
後藤さん頑張って下さい。
こんな文章誰が読むのかな?? 
タグ:社会
posted by ミタマ、パンダ at 20:23| Comment(13) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バカらしい

遠くに行ったって

何も変わりやしない

過去はいつも体に染み付いている

深夜特急?に飛び乗れば恐れも不安ものり越えて

新しい自分が見つかるだろうか

古い自分には到底わかりやしないじゃないか

ネットサーフィンなら天候にかかわらず毎日勤しんでるんだけどね

みんな知らないんだろうな

田舎じゃ深夜特急に乗るにも時間も労力もかかるってこと

知りたくもないだろうけど

それでも乗るしかないのだろうな

早くしないと若かったなんて言い訳もできない歳になる

言い訳 言い訳 言い訳

言い訳のために飛び乗るのか

バカらしい!実にバカらしい!じゃあ辞めておこうか

ははは(笑)

これも飛び乗りたくないための言い訳さ、たぶんね

ん?

「自分探し」の旅だって

そんな世代じゃない

何が悪かったんだかわかりゃしないよ

ふざけんな!

ふざけんな!

ふざけんな!

こんな自家中毒の詩なんてクズみたいなもんだ!

バカらしい!

さっさと工場でも働くよ、契約社員くらいにはなれるかな

そうすりゃみんな幸せさ、万事問題解決!!ファインプレー!

国立大学出ても意味ないもんだね

なんたって僕にはコミュニケーションスキルがないんだから

だから勉強しようと思ったんだけど・・・

もう少しバカに生まれてこればよかったな

僕の腕にゃ ダンボールも重いが

自分がもっとも重い

ふざけんな!くそったれ!

弟のおまえは辛抱してくれ、月収14万で

いったい今は何時代なんだよ

やっぱり田舎はくそったれだ!
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posted by ミタマ、パンダ at 15:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

プアは金だけじゃない。

 現代の「栄光」はどこにあるのか。
 現代の「栄光」探しは成功するのだろうか。
 パチンコ店で並べられる箱の数だろか。
 転職をくりかえす若者に対して行う説教のなかにはあるだろうか。 
 社会から見放された日雇い若年労働者がネットカフェで飲む、戦争を待望した夢の後の一杯の目覚ましのコーヒーの中に「栄光」はあるか。

 そんなものあるわけないだろう。
 「栄光に向かって走るあの列車に乗って行こう」ブルーハーツが歌っていた。
 現代人の栄光はせいぜい列車に乗って行くしかなく、自分の足で栄光に向かって走るなんてのは正気の沙汰じゃないのだろうと思う。
 自分の足で行ける「栄光」などグーグルマップでとっくに知ってる。とっくに知って手垢がつき放題の「栄光」に走るやつがどこにいるんだ。

 若年層は社会から見放された。
 管理するだけ管理しておいて、いらなくなったらやっていけないのがわかっているにもかかわらず動物園から野生のサバンナに放される動物のようだ。
 子犬の時は可愛がり、大きくなると飼えなくなって捨てられた野良犬のようだ。
 豊かではない社会は大変だろう。
 でも豊かになった社会も大変なのだ。
 豊かになった社会とは複雑な社会だからだ。いろんな選択といろんな能力を求められる。だから長い教育期間が必要であり、教育は社会を鑑みて行われなければならない。
 貧しい社会の問題は、貧しさに因を求められる。
 豊かな社会の問題は、何に因が求まれるのだ?
 貧しい社会は生まれて与えられたものしか利用できない。
 豊かな社会はいろいろなものが与えられる。しかし豊かな社会はいろいろなものを使いこなし乗りこなさなければならない。だから教育は大切である。
 貧しい社会は「体力」と「根性」が大切だったろう。なぜなら求めているのが「生命」だからだ。そして、自分が犠牲になり働くことは家族の「生命」を助けることであり、それは「栄光」だった。
 豊かな社会は「体力」と「根性」だけではネットで検索できる「栄光」しか手にはいらない。
 それで十分じゃないか?
 そう言う人は教育には口を出すべきではない。
 でもそういう人が教育に口だしたがる。勘違いした「栄光」のために。
 自らの権利だと声高々に叫ぶ。何も自らのことを知らないくせに。すでに無くなってしまった「栄光」に縛りついて家族や周りの人間を犠牲にしているくせに。動物に施す躾や管理と教育や道徳を勘違いしていたくせに。

 豊かな社会になって「栄光」は消えてしまった。でもそれでもいいだろう。死ぬ努力をしなければ生きていけない時代などないほうがいい。
 しかし、「栄光」が消えたのだから「栄光」の代わりに「戯れ」ようとしたのではなかったのか。手にも入らない。または何かを犠牲にしなければ手に入らなくなった「栄光」よりも誰も犠牲にもしないで手に入る「戯れ」を選択したのではなかったのか。それが新人類と言われた人々の選択だったはずだ。「栄光」を無くした豊かな社会の特権として。政治的自由を手放した代償として。
 しかしそれはあくまで豊かな社会での話だった。
 現在の若年層の中には「栄光」を失い「戯れ」も失ったものが溢れている。
 誰がこんな状態にしたのだ。
 間違いなく日本は豊かな国だったはずだ。
 私は韓国人でも在日朝鮮人でもないけれども、フォーククルセイダーズの歌う「イムジン河」をyoutubeで聴いていると「誰が祖国を二つに分けてしまったの」という歌詞に胸がジンとしてくる。
 今の日本はいったい「誰が祖国をこんな状態にしてしまったのか」そう問いたくなってくる。
 
 政治哲学者のH・アレントは古代ギリシャでの都市国家ポリスは自然には(ポリスの外では)対等でも平等でもない人々をノモス(制度)によって対等に平等にしてこそポリスの中に自由が成り立つと考えたと指摘した。平等と自由は両立しないのではなくて、平等と自由は同時にしか成り立たない。対等な者同士の相争いが自由の源泉なのだ。対等な者同士の相争いでの勝利が「栄光」だった。
 単なる自由放任や平等主義だけでは平等も自由もやってこない。どちらも不自由で不平等である。ただ全体的に豊かになっただけじゃなかったのかこの国は。

宮台ドットコム

タグ:経済 政治 社会
posted by ミタマ、パンダ at 14:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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