宮台真司批判について
社会学者の宮台真司氏を叩くのは結構なことだけどほかに代わりがいるのだろうとも思います。
ブルセラ女子高生を擁護していたのは、あの当時では仕方ないことだと思います。
多くの宮台真司氏の著作に目を通したわけではないけど、あの当時やれたていたことは、政治哲学者のH・アレントが言うところの「活動」が失われてた近現代社会への処方箋であり、さらに後発近代国家でボトムダウンではなくてボトムアップで近代化を行った国である日本への最適解を導きだそうとしたことだったと思います。
H・アレントの「活動」を一言で説明するのは難しいけども、生に有意味性をもたせる行為それ自身のことだと言えばいいだろうか。
宮台真司氏は「意味から強度」と言って近代社会において人々に生きる意味を与えていた「大きな物語」が機能しなくなったので「意味」を求めることをやめて「強度」を求めて生きる方がいいと示していたと思う。
アレントの言う「活動」は生に有意味性をあたえる行為それ自身であるので、宮台真司氏が言う「意味から強度」では「意味」の方ではなく「強度」とおおよそイコールだと言っていいと思う。何か行為をした結果に軸があるのではなくて、その行為自身に主眼がありその行為自身に意味を求める。アレントの言う「活動」は行為の結果に意味を見いだす必要がない。あくまで行為自身に「強度」が帯びるので結果に「意味」がいらない。であるのでやがてやってくる輝かしい「未来」を捨てて「今」を生きるブルセラ女子高生に肩入れしたのだろうと思う。
だだし、これはうまくいかなかった。それどころか「動物化」と言われるような現象の方が目立ってきた。というか一瞬うまくいきそうな感じがあったが永続しなかったと言うべきかもしれない。
近代社会からポストモダン、近代から後期近代へとシフトする瞬間に新しいものが始まる高揚、古い時代を捨てて新しい時代へと向かう期待が「活動」とイコールだったが、すぐに陳腐化とともに近現代社会で「活動」を復権することは無理があったのかもしれません。
「活動」が結果に意味を問うことがないのは行為自体をする動機が降ってくるまたは湧いてきているがゆえに行為の結果如何から利害やら効用やらを引き出す必要がないからだけども、「活動」はリアリティと仲がいいが、宮台真司氏の言ってた「強度」は生物の生命過程と仲がいい。
「活動」は良き者であらんとする高貴なる意思や宮台用語では「取り替え不可能性」と仲がいい。でも「強度」は「食欲」や「性欲」「生存本能」と仲がよくてこれらは確かに結果に意味を持ち出すことはないかもしれないが、「取り替え不可能性」は得られない。
「活動」に重きを置かれなかった時代は神学や哲学が幅をきたす時代である。だから古代ギリシャや古代ローマが滅亡してからは神学の時代になったし、政治に重きをおいた古代ギリシャ人から政治から距離をとった哲学者ソクラテスを経て弟子のプラトンは「イデア」を奉じるようになっていった(たぶんね(><))。社会(この場合多数性)から世界へ。これを脱社会化と言っていると思いますが、現代社会で脱社会化するのはもしかしてまともに社会と向き合った証であるともいえるが一方で、単なる「活動」できない弱者にも取れるということだと思います。個人的にはあたっていると思います。
一方で、宮台真司氏が擁護した「強度」もあの当時は失われた「活動」の匂いを漂わせていたのに今では本当に「強度」だけになってしまった。
「食欲」や「性欲」「生存本能」それのみになってしまい「動物化」した。
どこかで東浩紀氏や大澤真幸氏だったろうか、若者の「純愛」志向と「動物化」を議論してた記憶がありますが、たぶん一方で「イデア」的な志向と「動物」的な志向が交錯しているのだろうと思います。
それと、現代社会で心理学や社会学が注目を浴びるのは、たぶんそれは社会学や心理学が問題じゃなくて科学だからだろうと思います。哲学や文学・神学は科学とは言いがたい。社会に近代科学が行き渡ることによってすべてが科学的またはシステマチックになったがために「大きな物語」が機能している間はまだよかったけれどもそれが機能しなくなるとなんだかベルトコンベアに載せられている気がしてくるので、どうしようかと考えたときに、ベルトコンベアのごとく社会学や心理学があてがわれる。
もちろん社会学も心理学もまともであるなら科学であるので科学的でしょう。科学的でじゃないほうがおかしい。じゃあ科学的じゃなくていいじゃんと言っても、カルトにいけるわけにもいかない(実際はいったけど)。それにそういった思考自体がどうしようもなくシステマチックに思えてどうしようもない。でも、だから新人類的な全部忘れて「戯れ」ようだったのに(たぶんね(><))。
で、(長くなりそうなので)結論です。宮台真司氏を叩くのはいいと思いますが、他の人は叩くにも及ばない。適当な若者論ぶって名前広めようとか金儲けしようとか、自分のイデオロギーを押し付けているようにしか思えない。
別段、お金儲けでも名前広めようとするのでもイデオロギーでもなんでもいいけど、そのかわりしっかりやってくれよ。偉いんだったら。立派な頭持ってるんならしっかり使ってくれよ。できないなら大人しく粛々と生きていってくれよ。と思います。統計とかデータとかそんなもの必要としなくてもだいたい接してたらわかることもわかってない人が多すぎる。どんな感覚してるんだよ。だから学者とか評論家になるんだろう。学校の先生や学者は相手にするのが自分よりも能力や社会的影響力が低いのを見越してでかい顔してるように思います。学校の先生は生徒のことを大切にするがために尊敬されるのに、尊敬されたいがために学校の先生になっているみたいな人がたまにいる気がします。学校の先生はリハビリのための職業じゃないはずです。
僕を含めて若者が問題あるのは明らかだと思います。いや、明らかです。こんな文章書いてる自体で問題ありです!だから問題化されて当然だと思います。「人間力」そんなもんあるわけない!認めます。
でも、すべてにおいて若者が(僕が)悪いわけないし、問題ある人を指摘してもいいのなら若者を否定してる人たちにも十分問題があるのだから否定したっていいのだろうと思います。「人間力」?そんな大切ならなんでもっとちゃんと学校で教えてくれなかったんだ。いったい何やってたんだ教育者たちは。いじめを隠蔽していたおまえらに教育者の資格があるわけないだろ。コミュミケーション能力?ふざけるな!そりゃもっともだけどそんなの学校で問われてきたか。今まで学校でやってたことはなんだったんだ。おまえが求めてるコミュニケーションってのはおまえらをヨイショしろってことかよ。おまえらが納得すること話せということか。そんなバカな!コミュニケーションスキルってのはもともと前提を共有していないもの同士が話を通じされることじゃないのか。おまえらもともと前提を共有した人間しか相手にしてないじゃないか。私企業がそれで人事を決定するのは仕方ないこととしても、コミュニケーションスキルがまずおまえらにあるのか疑ってからにせめてしてくれ。自分たちの組織がまともな組織なのか疑ってからにしてくれ。でないと納得できない。世の中どうもコミュニケーションスキルが大切らしいからうちの会社もコニュニケーションスキルで判断しましようとか話し合ってそうなんだけど。
丸山真男が『日本の思想』で外国人教師がときに日本人の反応にショックを受けることがあると書いていたけど、僕もこの国は生きているとたまにカルチャーショックを受ける。トラウマになりそうだ。でもまあ、これってもしかすると(いや高い確率で)僕の問題の可能性大だけど(><)←実はこの絵文字しか知らないんだよね〜。
あ〜スッキリした。
後藤さん頑張って下さい。
こんな文章誰が読むのかな??